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Destination Station of a Dream
ジャンヌの物語も、いよいよ次で最終章となります。
ここまで読んで下さってる方々に感謝いたします。
お時間が許すならば、どうか最後までの
お付き合いをよろしくお願いいたします。
今まで私は、自分の物語なのに泣きながら書いている事がある、
と過去記事で申し上げた事があったかと思います。
しかし今回だけは極め付けでした。こんなに先を
書きたくない、と思ったのは初めての経験です。
この小説には真剣に向き合おう、と決めました。
現在既に、過去掲載分の大幅な書き直しをしています。
拙い文章力でも全力で、最後まで書き切ろうと思います。
私は今まで書いた長編作品の中で、何度か
不思議な経験をした事があります。物語の中で
何と、登場人物が勝手に話し、行動を始めるのです。
書いているのは私なのですが、私は想像の世界で
勝手に動く登場人物の言動をただ書くだけ、という
奇妙な感覚に陥った事があったりするのです。
そういう時の方がなぜか、計算して書いた時よりも
納得できるものが書けていたりするから不思議です。
これを書いている時も、そういう事が何度かありました。
そしてこの「サン・ミシェルの少女」は、推敲を何度も重ねて
出来る限りいい作品に仕上げたい、という欲求が生まれました。
この作品は最後までブログに掲載し終えたら
いったん全部消そうと思っています。
そして、書き直した完成作品は別の形で
皆さんにお披露目出来れば、と思っています。
最後に、ジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになった
ひとりの少女の安らかな眠りを祈りたいと思います。
その御霊が神とともにあらん事を。
Sayaki
記事の数がなんと二ヶ月で150を超えました。
なんというハイペース。
きっとサヤキはおバカに違いありません。
ですが、サヤキの目指しているものは、数分で忘れ去られる軽い文ではなく、
いつまでも心に残る文です。
長編は全部全力投球です!
ただし、今まで来てくれた方や、これから来てくれる方の為に
急いでコンテンツを増やそう、という思いが優先してしまい
拙い文ばかりになってしまいました……
今回は男の子の視点で、最初から最後までお話を進め、
彼が最後に日記を読むことで、女の子の視点でお話を
再度辿っていく、という構成にしてみました。
日記によって、彼女の行動の謎が解けるという仕組みですね。
信じられない事に、サヤキは悲しい話を書く時は、
特に最後なんて泣きながら書いている事があります。
じゃあ書くなよって話なのですが(笑
今回も凄く思い入れのある作品です。全20詩。長いですねえ……
「これもう詩じゃないよ」と思われる方もきっと
いらっしゃるんだろうなぁとは思いますが、それは残念な勘違いです。
でも意外とそう考えてる人が多いですね。
韻文は皆さんご存知の通り、音の反復や一定の繰り返しなどのリズムを持つものです。
古い時代、詩は宗教的なものに使われることが多く、
音調を整えて朗唱し易くしていました。
逆にサヤキが書くものは散文が多いです。
詩的な形式を取ってはいますが、やはり散文です。
散文詩というのは、韻にとらわれない形式の詩を指して言います。
今この後書きで書いているのも散文です。詩的表現のある散文が散文詩と言う事ですね。
散文詩と韻文詩は対義の関係にあります。なのでこの二つを見分けるのは実に簡単です。
ただしここに、現代詩や自由詩などが入ってくるとややこしくなります。
自由詩の対義になるのは定型詩です。この二つを見分けるのも難しくないでしょう。
しかしどれが自由詩で、どれが散文詩で、どれが現代詩かと聞かれると、
少なくともサヤキは困ってしまいます。
なぜなら、サヤキが書いているのは詩であり散文詩であり自由詩であり現代詩だからです。
これを明確に分ける定義は語学者の間でも、今のところ無いようです。
ただし、散文と散文詩は実は全くの別物です。
わかりやすく言うと、今サヤキが書いている文は散文ですが、散文詩ではありません。
散文が散文詩になる為には、詩情(ポエジーと一般に呼ばれるもの)の表現が
必要になってきます。
詩の表現方法として代表的なものは、
「行わけ」行を分けて特定の言葉を強調する、高まり・情景を表現する。
「連」何行かをまとめ、内容をまとめる
「体言止め」文末を名詞で止め強調する
「比喩」直喩・隠喩があり「~みたいな」「のようだ」と表現するのが直喩
隠喩はみたいな、やようだ、を使わず別の言葉で言い換える表現法
「擬人」物を人間のように例える、感情で表現する
「倒置」言葉の順序を変え強調したい事を先に持ってくる
「反復」繰り返してその言葉や表現を強調する
「省略」言葉をわざと省いて余情を残す
などなどですね。これらが無いと散文は「散文詩」にはなれないのです。
韻文詩と散文詩は対義なので、光と影のようなものなのです。
サヤキの作風は、韻文詩と散文詩両方のいいとこ取りかもですね。
そして、目の前の風景など事柄を切り取った文を「叙事詩」
想像や感情を切り取った文を「叙情詩」と言います。
ギルガメッシュ叙事詩は、第3者が彼の様々な体験や冒険を、自分の感情を入れずに
書き綴ったので「叙事詩」です。
反復のみで言葉を短く並べたものだけがポエムではないのですね。
奥深いです。
写真提供:GATAG 著作者:geralt(著作権放棄)
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まず、お礼から。
日本ブログ村のランキングに、参加させて頂いているのですが、恐ろしい事に先週の日曜日。
朝から夜まで、詩・ポエム全体の注目記事で「サンミシェル」が1位にずっといました。
本当に選んで頂いた方に感謝です、何とお礼を言っていいものかわかりません。
見ていらっしゃるかどうかはわかりませんが、せめてこの場をお借りして感謝の気持ちを
お伝えしたいと思います。
本当に有難うございました、凄く凄く嬉しかったです。
あと、こんな拙い文をそれでも読んでくださる方、本当に有難うございます。
未熟なのを自覚しながらも、がんばって書くぞと勇気がわいています。
少しでも良いテキストを書き続ける事に専念します。なので見捨てないで下さい。
日曜の詩ブログ全体といえば、5分ごとに新着記事があがってくる激戦区です。
そんな場所で1位を頂けた事に対して、それに恥じない文を書き続けようと思います。
さて、今回の内容ですが……意外と日本に、ジャンヌの一生を追った小説が少ないと
いう事に気付きました。凄く楽しいお話だと思うのですが……。
せっかくなので、ジャンヌの歴史で「奇跡」と言われているものの謎解きもやってみました。
まず最初は、ジャンヌがなぜ王太子を見分ける事ができたかと、なぜ一瞬で王太子に気に
入られたのか、という点です。ジャンヌが王太子を見つけ、そっと何かを耳打ちしたのは
間違いないそうですが、なぜ見つけたか、その耳打ちの内容は何だったか、は勿論史料に
書かれてはいません。なので「これなら奇跡になる」という謎解きを入れました。
あと、河を渡るときに突然風向きが変わる、という奇跡も、本当はこうじゃないかなという
謎解きを入れています。大変楽しく書けました。
この答えが当たっているかどうかはわかりませんが、今回ここに書いたテキストは歴史書
でもなく史料でもないので、面白く読めるよう創作でこういう話も入れてみたのです。
その他にも、いろいろと考えられる限りの「楽しく読める工夫」を意識して書きました。
あまりうまくいってないのは、作者の力不足です……すみません。
それでも「歴史って面白いなぁ」と思って下さる方が一人でもいらっしゃれば、こんなに
幸せなことはありません。
今はまだ、ブログ始めて二ヶ月未満なので大したものも無いですが、とにかく良いテキストに
こだわる事だけを考えて、様々な作品を揃えたいと思っています。
言葉が持つ力を信じて。
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最も不幸な事は、愛を失う事ではない
失う愛すら無い事である
こんにちは、サヤキです。
今回の「冥府に住む聖者」のテーマは上記のものです。
愛を失う事はとてもつらい事です。失恋でも死別でも、離別でも。
ただ、愛された記憶がそのまま良き希望になったり、次の恋愛の教訓になったり
様々な形でその人の、現在と未来という泉を潤す可能性があるかもしれません。
最もつらいのは、その機会すら与えられない事だと思うのです。
北欧神話、特にロキに注視したのは、彼が「失う愛すらない」存在の象徴になると
思ったからです。実際には、ロキには献身的な妻もいるのですが。
そして今回のこの作品は「愛を失った人」へのエールでもあるのです。
北欧神話は数々の文献、資料、物語など数多くありますが、その中で恐らく
「ロキは愛されなくなり、神々の気を引く為に私を見ろと足掻いていた」という
解釈をした人間はサヤキが初めてだと思います。いたらすみません(汗
私はロキが、愛されていた過去の呪縛から逃れられず、それゆえに破滅へと走って
しまった……というように感じました。
気まぐれなトリックスターという言葉では、この神を説明できないと思います。
失う愛すら無くしてしまったロキはきっと、乾いた涙しか流せなかったのでしょう。
彼は泣かないと言ったのではなく、涙が乾いたと言ったのです。
そうです、ずっと彼は泣いていたのです。
ちなみに作中にも書いていますが、北欧神話とは元は口承で伝えられる神話でした。
今回のエピソードは「スノッリのエッダ」によるものですが、実はこのお話が編纂
されたのは13世紀とかなり最近のことなのです。
13世紀といえば、アイスランドがキリスト教化されてもう200年も経っています。
つまり、現在伝わるこのお話は、キリスト教の観点から書かれたものなのです。
多くの文献で元々火の神であったロキが、サタン化されて描かれる理由のひとつです。
なので私は違う解釈で、傷付く人間が自分を取り戻す話にこの神話をちりばめました。
こういう解釈の話が、一つくらいあってもいいと思って。
愛を失う事は悲しい事です。しかし将来、偶然このテキストを読んでくれた方が
このお話を再び歩き始める為の、ささやかなきっかけにして頂けるなら、たとえ
それが微力であっても、書いた人間にとってはこれに勝る喜びはありません。
このテキストは、傷付く全ての人へのエールなのですから……
写真提供:GATAG 著作者:ai3310X
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